Pokdon備忘録です。
2025年1月24日2時父が亡くなりました。
69歳でした。
1月20日
階段下で倒れていてただならぬ様子を見て、不動産屋さんが救急車を呼びました。
部屋で寝ていたら救急隊員の人が家を訪ねてきて「同行お願いします。」と言われたが私はインフルエンザにかかっており乗れなかった。救急隊員によると血中酸素飽和濃度が60%程しかなかったとの事でした。
遠方に住んでる弟と離婚した母親が代わりに手続きにいきました。
診断名は「真菌性肺炎」。湿度の高い場所でなる病気なのに、一緒に住んでた自分はインフルエンザ、空気が乾燥している場所でかかりやすい病気にかかって少し不思議でした。
1月21日
母と弟からインフル中だったので食べやすい食べ物とカップラーメンを見舞いにやってきた。父の入院手続きについて詳しく伝えられ資料を渡される。
肺の半分ぐらいしか機能してなくて、さらに運ばれてきた時の数値から1/3減ったらしく、うつ伏せ寝で身体固定させてなんとか回復出来ないか色々手探りのようだった。医者の友人によると腹臥位呼吸は、相当ヤバい状態の時行う処置らしいとの事だった。父は太っていたので特に苦しいだろうと思った。説明では無理やり身体拘束して動けないようにするため了承をとの事だった。
1月22日
暫くは帰ってこれないだろうからその間の自炊や一人暮らしの準備を始める。

1月24日
0時頃。ゲーム中。「危険な状態なので早く来てください。」父の自発呼吸が完全に停止したとの事。
とにかく急いで準備をしていると2回目の電話。「心停止しました。」と電話。
つまり死・・・。
タクシーに乗車して、不安といら立ちの中病院に到着。
お金がなかったので京王タクシーはsuicaが使えるのでd払いからモバイルsuicaに全額チャージし乗り切る。
邂逅を果たした父は、病院のベッドで穏やかにねむっていた。
しかし、機械は無情にも「0」の表示を羅列していた。
もう生き返る事はない事を理解してしまった。
お父さんの手を繰り返し握る。
あたたかった。
他のご親族は?と尋ねられ急いで弟と母にラインと電話をかけたが繋がらず、医者は少し苛立っていた。
ぐずぐずしてても仕方ない。
生き返る事はないんだ。
わかってる。
「死亡の手続きをお願いします。」
そう告げ医者は人工呼吸器を外し始めた。
「少し大きい音が出ます。」
バフォーと音がなり、機械が外される。
「自発呼吸なし、心停止、瞳孔散大の所見が見られます。以上です。」
静かに頷く。
医者はこちらの頷きに対し言葉をつなげる。
「1月24日2時23分。ご臨終です。」
医者と看護師は静かに合掌した。
…。涙が溢れてきた。
辛かった思い出は一つも出ず。最近のよかった記憶ばかりよみがえる。
いつもどおりカイちゃんって言ってよ。ねぇ。
でも我慢した。涙は鼻に伝わり鼻水ばかり出る。
医者は告げる。
「ルール上、死亡の経緯を調べるために解剖しますが宜しいでしょうか?」
そこで耐えられなくなった。
「どう・・せ火葬され骨にされるのは・・・わかってる。けど、お父さんの体をきず・・・きず・・・傷つけないでください。」
嗚咽交じりに振り絞ってどなるように話し、泣き崩れてしまった。
「今回の死亡経緯は明白なので解剖はしません。それで宜しいでしょうか。」
頷いた。言葉なんて発する事が出来なかった。
ここでドラマやアニメみたいに大声で泣きたかった。けど冷静でなければならない。冷静であろうという頭の中の指示がそれを許さなかった。
「ではサインを真菌性肺炎、敗血症、多臓器不全、心停止。こちらの死亡診断書を書いてください。それと、併設されてるコンビニでこちらの服を買ってきてください。」
指示通りコンビニで服を買いにいく。その頃には鼻水しか出なかった。
受け入れられない。というのが正直な感想だろう。
現実じゃなくて悪い夢なんじゃないかとすら思えるかもしれない。
でも現実だった。
看護師に指定された服を手渡すと母と弟がエレベータホールに到着していた。
遅いよ。
心の中で毒づいた。
弟は
「親父は?」
と聞かれたので、涙をこらえようとして上から目線で
「死んだよ。」
と伝えた。
弟は無言で抱き着いてきた。
慰めてくれた。
涙が少しこぼれた。
でもそれ以上は我慢した。
悲しいのは自分だけじゃない。そしてこの感情は自分に向けられてるものじゃない。父に対してだ。
泣くのはいけないことだ。そういいきかせた。
二人を父の前に案内する。
母は走りこんできて父の胸で泣き崩れた。
「アンタ―ーーーーー!」
少し離れたところで弟も呼応するように。
「親父ーーーーー!」
と叫んだ。それを見てまた涙が出そうになった。
でも、これは自分の感情じゃない。他者の感情だ。巻き込まれるな!
という命令が走る。
走るが感情が通り越してすすり泣きをした。
弟が父の手を握る。
「温かい。まだ温かいぞ。親父ーー!」
悲しかった。二人の反応を見て父はもういない事を再認識させられたから。
ずっと鼻水が出てて、涙はコンタクトの間にたまり、ずっと視界が霞んだままになった。
茫然自失という表現が近いかもしれない。
理解を超えたわけではない。冷静でもない。脳は多動で今後の手続きや連絡を考え、感情は別物だった。
「死亡した。亡くなった。そう口にしたら泣いてしまうから”鬼籍”という表現を用いよう。」とか父の知人やお店に連絡取ろうとか、自立訓練所に連絡を取らないととか。
しっかりしろ、しっかりするんだ。
少し弱弱しくそう思うことで耐えていた。
強くは思えない。
精神病の躁うつ病のホルダーで発症したきっかけや自殺未遂を犯したきっかけが強い否定だ。
だから強く思うことに強い抵抗があった。
裸で冷たい風にさらされてるのをじっと耐えているかのような状態だった。
時刻は午前4時を回っていた。
病室に葬儀社を名乗る男性が現れた。
父は生活保護で自分も受給者だった。
だから余計な費用をかけたくない理由から、市役所に確認を取る趣旨を伝えたがおそらく問題ないとの事。死亡届けの書類を病院が作成してくるので、入院セットを返却。退院届けを提出して欲しいとの事でその場でサインして併設されたコンビニに提出した。
サインの際ずっと涙はまぶたの中に滞留していて手元は全く見えなかった。
母は父の最後の姿をスケッチしていた。
父を捨てた母がどういう気持ちなのかはわからない。
しかしそれ程離れていなかったことにその時気づかされた。
近くのマクドナルドで夜が開ける事を待つことにした。
お腹は減っていたが食べる気にはなれずコーヒーだけを注文した。
今日一日だけで色々あった気がする。
ただ単に人が死んだだけ。当たり前の日常の連鎖だ。
なのに・・・なんで・・・。
父と過ごしてきた時間が長かったからこそ、この短時間で父の死を実感してしまった。
それが止めどなく悲しくて涙が切れることはなかった。
午前6時をまわり、死亡届けができたとの事で病院に戻った。
父の遺体は霊安室に移されていた。
父は相変わらず穏やかな表情を浮かべていた。
それがまた悲しかった。
まるで未練がないように見えて。
自分だけ満足して逝きやがって。
あんたのせいで俺は悲しいよ、寂しいよ。
再び涙で視界は霞。鼻が止まらなかった。
息つくまもなく死亡届けにサインする。
火葬までは市役所が持ってくれるとの事で、父の遺体は一旦葬儀社で保管されるそうだ。
火葬場がうまっていて一番早くて2月の6日との事だった。
父の遺体が車に移される。医者と葬儀社の男性が合わせて合掌しゆっくりと頭を垂れる。
こちらも合わせて合掌と頭を垂れるべきだろうけど本当に最後なんだ、最後の姿ちゃんとみたいと考えて頭を垂れるのが難しかった。
本当は抱きついて抱き締めたかった。連れてかないでと叫びたかった。
しかし実際は父の事を凝視し、決して忘れないという信念で送られていく父を見送った。
父は居た。間違いなく生きていた。忘れない。と。
時間は午前9時を回る。
自立訓練所に電話で暫くおやすみを頂きたいと話そうとしたが。
「ぐす。ち、父が、き、鬼籍には・・・入りまして。ぐす。」
涙と嗚咽で言葉が紡げなかったが、察して。
「ゆっくり休んでください。一週間こちらから連絡することはありません。」
と伝えてきた。
父の知り合いにも電話やLINE、メールを送って訃報を伝えた。
連絡ありがとうございました。や、心配して今からでも行ける?暫く一緒にいようか?と返事をいただいた。
ただ父のいない世界になれる意味でも、心を落ち着ける意味でも今はひとりになりたいと伝えた。
明日から父の家の遺品整理、片付けだ。
資産になるようなものはひとつもないので、分別して捨てるだけだが。
とりあえずかえってゆっくり寝ることに。
帰ると自分の家に父の残り香がそこら中に転がっていた。
父と私は半分同居してたのでここは二人の家でもある。
うつ病でダウンしてるのを面倒見てもらってからずっとついててもらった。
父とずっと暮らしてきた。離れてた時間は一瞬だった。
食事を作ってくれた。朝起こしてくれた、夜は寝る時間を伝えてくれた。
喫茶店やマクド、今回のような例外を除きひとりで外出できないから買い物やお出掛けについてってくれた。
頭を寄せると頭を撫でてくれ、かいちゃん、かいちゃん言ってくれた。
そんな父が台所にいるような、何時ものようにベッドで寛いでるようなそんな気がした。
二度と訪れない日々、もう二度と撫でてはくれない。あえない。
「うー、うーーううう。うわああああああああん!」
我ながら情けない声で始めて大声でないた。
泣き終わったら事切れたように疲れて眠ってしまった。
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